現代の恋愛には異性へのアプローチ方法が多種多様に存在します。対面での告白が恥ずかしい場合、LINEなどのメッセージアプリを利用して気持ちを伝えることもできます。しかし、今とは全く異なる文化や慣習、価値観が存在した時代では、どのような恋愛が普通だったのでしょうか。今回ご紹介するのは平安時代の庶民と貴族の恋愛事情です。そこには驚きの事実が隠されていました。
まずは、平安時代の庶民の恋愛事情について見ていきましょう。実は一夫一婦制が確立するのは鎌倉時代以降のことで、それまでは明確な線引きがありませんでした。というのも、平安時代中期まで律令制度が存在し、日本は母系社会で成り立っていたからです。
具体的に言うと、土地や財産は父親から子供に受け継がれますよね。しかし、律令制度では国が人民に土地を課するだけで、収穫物を税として納める義務がありました。労働力が多ければ多いほど都合が良いため、自然と女性の価値が高まり、母系社会が形成されました。これが庶民の恋愛の背景にあったのです。
このような社会構造の中で、恋愛も非常に大らかなものとなりました。
例えば、ある男性が特定の女性に惚れたとします。現代なら告白や親の許しを得る必要がありますが、当時は女性の寝床に入るだけで済んだのです。もちろん、女性には拒否する権利もありましたが、それが承諾されればカップルが成立します。
驚くべきことに、こうした関係は労働力を増やすために奨励されていたのです。女性が妊娠するまで何度も通い、子が生まれたら村全体で育てるという形が一般的でした。女性の相手が複数いることも珍しくありませんでした。
次に、平安時代の貴族の恋愛について見ていきましょう。平安貴族の女性といえば高貴な身分ばかりではなく、宮中に使える女官たちもいました。彼女たちは仕事もでき、教養もありましたが、恋愛に関しては一筋縄ではいきませんでした。
上流貴族との結婚を望む彼女たちは、仲立ちと呼ばれる人物を頼りました。仲立ちは男女を引き合わせるだけでなく、都に噂を流す役割も果たしました。例えば、「中宮の近くに素晴らしい女性がいる」といった噂を流し、若い貴族が興味を持つよう誘導しました。噂を聞きつけた貴族がラブレターを送り、気の利いた和歌を添えることでアプローチが始まります。
和歌を介してのアプローチが成功すれば、次は直接会う段階に進みます。ただし、平安時代の恋は焦らず進めることが重要でした。男性が女性の寝床を訪れるのは深夜で、顔を見せることはありませんでした。庭の手入れや女性の服装からその生活ぶりや品格を想像し、再度和歌を送るというプロセスを繰り返しました。
平安貴族たちは優れた和歌を読むだけでなく、時には奇想天外な妄想に耽ることもありました。例えば、ある時、藤原の透けたという貴族が女官の部屋の前を通りかかると、汗じみのある下着が干されていました。彼は即興で和歌を読んで部屋へ投げ込みます。現代なら通報されても不思議ではない行動ですが、当時はそうした想像力が評価されました。
また、平安時代の貴族たちは公然と不倫が横行していた時代でもありました。紫式部の同僚である和泉式部は多くの男性と愛し合ったことで有名です。しかし、度が過ぎると周囲からの批判も避けられませんでした。紫式部自身もそんな仲間たちを冷ややかに評価していました。
平安時代の恋愛事情は、現代の価値観から見ると決して許されるものではありません。しかし、その時代背景を理解することで、逆に興味深く感じられるところもあります。
引用元:https://youtu.be/7dxR7LQeLBI?si=RNgqq6K9-UXigVGZ,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]